Mag-log in第90話 隣の病室では、もう妊娠が始まっていました
真帆から二人の存在を聞かされても、現地の支援員はすぐには病室を訪ねなかった。
「本人たちが支援を求めていると確認できない限り、こちらから医療情報を聞き出すことはできません。相原さんから声をかけるとしても、助けなければならないという負担を背負わせたくありません」
正しい判断だった。けれど、明日には三人とも処置を受ける予定だという真帆の言葉が、胸の奥に重く残っている。
こちらが焦れば、佐伯医師と同じことをしてしまう。本人のためだと決めつけ、その人の気持ちを確かめる前に行動を選んでしまう。分かっているのに、画面の向こうで時計の針が進むたび、黙って待つことが無責任に思えてならなかった。
「私が話してきます」
真帆は点滴台を引き寄せながら立ち上がった。
「治療をやめろとも、ここから逃げろとも言いません。同じ説明書を渡されているかだけ聞きます。もし違うと言われたら、それ以上は話さない。それならいいですよね」
「体調は大丈夫
第90話 隣の病室では、もう妊娠が始まっていました 真帆から二人の存在を聞かされても、現地の支援員はすぐには病室を訪ねなかった。「本人たちが支援を求めていると確認できない限り、こちらから医療情報を聞き出すことはできません。相原さんから声をかけるとしても、助けなければならないという負担を背負わせたくありません」 正しい判断だった。けれど、明日には三人とも処置を受ける予定だという真帆の言葉が、胸の奥に重く残っている。 こちらが焦れば、佐伯医師と同じことをしてしまう。本人のためだと決めつけ、その人の気持ちを確かめる前に行動を選んでしまう。分かっているのに、画面の向こうで時計の針が進むたび、黙って待つことが無責任に思えてならなかった。「私が話してきます」 真帆は点滴台を引き寄せながら立ち上がった。「治療をやめろとも、ここから逃げろとも言いません。同じ説明書を渡されているかだけ聞きます。もし違うと言われたら、それ以上は話さない。それならいいですよね」「体調は大丈夫なの?」 私が尋ねると、真帆は自分の腕へつながる管を見下ろした。「大丈夫じゃないです。でも、ここで黙って寝たら、たぶん朝まで眠れません」 支援員が同行すると申し出たが、真帆は首を横に振った。見知らぬ専門家を連れていけば、相手が警戒するかもしれないという。支援員は病室の前まで付き添い、話したくないと言われたらすぐ戻ること、体調が悪化したら自分で歩こうとしないことを約束させた。 真帆が端末を病室へ残したため、私たちには何も見えなくなった。廊下へ出た足音と扉の閉まる音だけが聞こえ、そのあとは空調の低い唸りが続いた。 朔也が卓上の時計を確かめる。真帆が部屋を出てから、まだ二分も経っていなかった。「長く感じるね」「うん」 それだけ答え、私は暗くなった画面を見つめた。急かしてはいけないと分かっているのに、指先は無意識に机を叩いていた。 やがて廊下から複数の声が近づいてきた。扉が開き、最初に入ってきた真帆の後ろから、肩までの髪を一つに結んだ女性が姿を見せた。
第89話 治療を止めるのではなく、あなたの条件を拒否します 相原真帆の顔が、画面の中央からわずかに外れた。彼女は病室の扉を見ていた。こちらまで届いた二度目のノックは、最初よりも間隔が短く、返事を待つというより、応答を促す響きを帯びていた。「相原さん、佐伯です。明日の説明について、少し確認しておきたいことがあります」 扉越しの声は穏やかだった。知らなければ、夜遅くまで患者を気遣って病室を訪ねた医師の声に聞こえただろう。 真帆は端末を握り直した。白いシーツの上で指が震え、その震えを隠すように、親指が何度も側面をなぞっている。「切ったほうがいいですか」 誰に尋ねたのかは分からなかった。私にでも、弁護士にでもなく、いままで医師の判断に従うことで治療をつないできた自分自身に、許可を求めているように聞こえた。「切らなくていい」 答えたのは私だったが、決めるのは真帆だということを急いで付け加えた。「通話を続けるか、佐伯医師を入れるか、どちらも真帆さんが決めていい。怖ければ、現地の支援員が来るまで扉を開けなくてもいいよ」「怖いかどうかで決めたら、たぶん何もできないです」 真帆は口元だけで笑おうとして、うまくいかなかった。やがて画面をベッド脇の台に立てると、点滴台を避けながら扉へ向かった。「先生、いま、日本の弁護士と関係者に相談しています。通話は切りません。それでもいいなら入ってください」 廊下側で数秒の沈黙があった。「もちろんです。あなたが希望するなら」 鍵の外れる音がし、佐伯医師が病室へ入ってきた。 私が彼を直接見たのは、これが初めてではない。けれど、訴訟資料に記された操作履歴や、冬真の端末から消された同意条件を知ったあとでは、以前と同じ顔には見えなかった。 灰色の髪は短く整えられ、紺色のジャケットにも乱れがない。疲労は目の下に薄くにじんでいたものの、自分が追い詰められている人間の顔ではなかった。彼はベッド脇に立つ端末へ気づくと、画面の向こうに並ぶ私たちをゆっくり確かめた。「久瀬澪さん。それ
第88話 娘の未来を先に奪われた十九歳の少女は、「治療を止めないで」と言いました 十九歳の少女の名は、相原真帆といった。 生まれた直後に重い感染症を起こし、救命のためAURの緊急照合機能が使われている。当時の記録では、母親が長期経過観察へ同意したことになっていたが、署名欄へ添えられた説明書には、将来の妊娠や胚移植について一言も書かれていなかった。 真帆さんは幼い頃から、原因のはっきりしない免疫異常に苦しんでいた。季節の変わり目には高熱を出し、十代になってからは関節の痛みや不整脈も現れたという。国外の提携施設から届いた案内には、「出生時から保存されている本人由来の生体資源を用いた根本治療」と書かれていた。 渡航費も、滞在費も、治療費もAURが負担している。さらに治療へ協力すれば、帰国後の学費支援まで受けられる契約だった。「本人へ直接連絡するには、慎重な手続きが必要です」 芙美さんは、真帆さんの資料を机へ置きながら言った。「現在滞在している国の医療法では、成人患者への連絡を家族や第三者が妨げることはできません。ただし、こちらが患者情報を不正に得たと主張されれば、接触そのものを制限される可能性があります。まず現地の弁護士と患者支援団体を通し、独立した説明を受ける権利があることを伝えます」「そのあいだにも、薬は続くんですよね」「裁判所の保全命令と、国内で発行された同意撤回通知は送達済みです。施設側は、処置を一時停止したと回答しています。ただし、投薬まで完全に止まったかは確認できていません」 机の向こうでは、美月さんと奈緒さんが、真帆さんへ説明する資料の表現を見直していた。専門用語を減らし、何が事実で、何がまだ疑いの段階なのかを色分けしている。「『あなたは騙されています』と最初に書くのは、やめたほうがいいと思う」 奈緒さんが言った。「どうして? 実際、説明されていないんでしょう」 美月さんが赤いペンを持ったまま問い返す。「騙されていると言われると、自分が愚かだったと責められたように感じる人もいるから。私だったら、知らない相手から突然そ
第87話 娘を「未来の母体」に登録したのは、命を救った主治医でした 灯の出生記録が入力された小児循環器観察室は、その日のうちに封鎖された。 警備員が扉の前へ立ち、室内にある三台の端末は電源を落とさず、通信だけを切断された。真奈さんによれば、電源を切ると一時記録が消える可能性があるらしい。誰が何を入力したのかを確かめるため、病院の情報管理部門と外部の調査会社が入り、職員証の利用履歴、防犯映像、端末に接続された医療機器の記録まで保全することになった。 調査のあいだも、灯は同じ階の新生児集中治療室にいる。 候補者登録は停止され、外部から診療情報へ接続できない状態になっている。それでも、登録した人物が病院内にいると知ってから、看護師が保育器に近づくたび、私は名札を見るようになった。これまで灯を世話してくれた人まで疑っている自分が嫌だったが、信じようと努力するほど身体が強張った。「澪さん、授乳用のミルクを替えますね。先ほど説明した、脂肪分を調整したものです」「その情報は、院外へ送られませんか」 若い看護師は一瞬驚いたあと、私が何を恐れているのか気づいたらしく、ミルクの容器を持ったまま丁寧に答えた。「院内の栄養管理記録にだけ残ります。外部研究用の共有は停止されていますし、私の権限では送信できません。もし不安でしたら、入力画面を一緒に確認しますか」「ごめんなさい。あなたが悪いと思っているわけではないんです」「大丈夫です。私でも同じことを聞くと思います」 責められたわけでもないのに、その優しい返事がかえって苦しかった。病院には、灯のために働いてくれている人が大勢いる。たった一人の行為か、あるいは一つの仕組みのせいで、その全員を信用できなくなるのは嫌だった。 看護師が記録画面を見せてくれたので、私は送信先が院内だけになっていることを確かめた。そこまでしても心から安心できたわけではない。信頼とは、一度壊れたあと、設定画面のチェック欄一つで戻せるものではなかった。「確認してくれて、ありがとうございます」「こちらこそ、聞いてくださって助かります。何も言わずに不安な
第86話 娘を「未来の母体」から守るため、夫は父親になると署名しました「灯の名前を、いますぐ消してください」 私の声は自分で思っていたより低く、泣き声にも怒鳴り声にもならなかった。けれど、机の上に置いていた手が震え、爪が皮膚へ食い込んでいることには、朔也が指を開かせてくれるまで気づかなかった。「澪、手を傷つける」「私の手なんて、いまはどうでもいいの」「どうでもよくない。ただ、灯の件を止めるなと言っているわけではない。手を傷つけなくても、怒っていい」 朔也は私の掌に残った爪の跡を確かめ、それ以上は触れずに手を離した。以前なら、落ち着けと言ったかもしれない。けれど、娘が生まれた瞬間から未来の妊娠を予定されていた母親へ、落ち着くことを求めるほうがおかしいと分かっているのだろう。 候補者管理画面には、久瀬灯の名と出生日時、現在の入院先、診療識別番号まで表示されていた。移植予定は、早くても十数年以上先である。それでも、遠い未来だから安心できるはずがなかった。佐伯医師の計画は、私たちが今日拒否しても、灯が自分で選べる年齢になるまで待つつもりでいる。 しかも、それは待つという穏やかな言葉で呼べるものではない。 娘が成長し、妊娠できる身体になる日を、使用可能になる日として数えているだけだった。「削除は、いま行うべきではありません」 真奈さんが言った。 私は反射的に彼女を睨んだが、真奈さんは怯まず、画面の記録を別の保存領域へ複製しながら続けた。「灯ちゃんを候補者として残したいわけではありません。ここで元データを消すと、誰が、いつ、どの情報を使って登録したかという証拠まで失う可能性があります。まず管理権限を凍結し、候補者としての効力を停止したあと、証拠を保全した状態で登録そのものの無効を求めるべきです」「では、名前が残っているあいだ、向こうの計画も残るんですか」「表示と効力は別です。いまから実行権限を止めます。ただし、表示を消して安心した結果、別の番号で登録し直されるほうが危険です。残っている記録を、こちらが監視できる状態にしておいたほうがいい
第85話 私が拒めば、凍結胚は卵子提供者の身体へ戻される予定でした 早瀬七海さんへ電話を掛けたのは、私だった。 芙美さんは代理人から説明したほうがいいと言い、真壁さんも、候補者一覧の真正性を確認してから連絡すべきだと慎重な意見を述べた。二人の判断は正しかったと思う。それでも、自分の名前が母体候補として勝手に登録されていた経験を持つ私が、同じ目に遭っている七海さんのことを、本人が知らない場所で協議し続けるのは耐えられなかった。 電話は二度目の呼び出し音でつながった。『どうしたの。Cに何かあった?』 七海さんは挨拶より先に、凍結胚の状態を尋ねた。母親を名乗るつもりはないと言いながら、何かあれば気にせずにはいられない。その矛盾を、私はもう無責任だとは思わなかった。「Cは凍結されたままです。保存状態にも問題はありません。ただ、あなたに関係する新しい記録が見つかりました」『また私の卵子から何か作っていた、という話なら、驚ける自信がないわ。最近は、自分の身体について知るたび、他人の持ち物の取扱説明書を読まされている気分になるの』「移植先の記録です。私がCの移植を拒否した場合に備えて、代わりに妊娠を担わせる候補者が選ばれていました。その最初に、七海さんの名前があります」 電話の向こうから返事がなくなった。聞こえるのは、遠くを走る車の音と、衣服が擦れるかすかな音だけだった。「七海さん、いまどこにいますか。運転中ではありませんか」『家にいる。座っているから、そんな声を出さなくても大丈夫よ』「ごめんなさい」『謝るくらいなら、最初からもう少し上手に言って。まあ、どう言われても内容は変わらないけれど』 いつもの刺のある口調が戻ってきたものの、それで平気になったわけではないと分かった。私も驚いたときほど、どうでもいい部分の言葉遣いが気になることがある。相手の説明の粗を探しているあいだは、本当に怖いものへ向き合わずに済むからだ。『それで、あなたたちは私に何をさせたいの? Cは私の卵子から作られたから、あなたが嫌なら私が産むべきだとでも言うの?』







